9



 澄田は以前言っていた通り教師にはならずに、都内のとある中小企業の事務職に就いた。彼女は就職活動の時、俺には一言も相談してくることはなかった。なぜだろうと思ったし、正直それを少し寂しくも感じた。まぁ彼女なりの考えもあったのだろう、特に深くは考えなかった。
 会社に入ると学生時代の生ぬるい環境とは違い、毎日非常に忙しく時間に追われる生活になった。澄田と会う時間も良くて月に数回になり大幅に減ってしまったが、それでも休日に会うと彼女はいつも笑顔で接してくれた。
 澄田は東上線の上板橋に住んでいたから、いつも池袋や新宿でデートをした。特に何をどうこうしようって訳じゃないけど、公園に行ったり、映画を見たり、ブラブラと買い物なんかをした。その他にも、すっかり得意になった彼女の手料理を食べるために、外出だけでなくお互いの部屋に行くこともたくさんあった。どちらかというと彼女が自分の部屋に来てくれることが多かったように思う。半同棲のような感じだったかもしれない。
 料理の食材を抱えてくる澄田に「いつもわざわざ悪いね」なんて言うと、「そんなの全然気にしないでよ。それにあたしが来たいからこうして来てるんだよ」なんて言って笑ってた。楽しそうな顔を見ると、自分の心も安らいだ。
 会う時間が減る一方で、メールをする回数は増えていった。その文面には寂しいとか会いたいなんてことは一言も書かれていなかったし、俺の方もそんなことは書かなかった。普段の彼女のメールは、会社でこんなことがあったとか、この前の何がおいしかったとか、こんなことを感じたとか、そういった取り留めのない日々の日記のような内容だった。思わず笑ってしまうような文章ではなかったけれど、そんなメールを読むことが自分の日々の楽しみであり、一日の終わりにそれを読むと明日も頑張れる、そんな気がした。

 大学二年以来、俺と澄田は毎年のようにお花見をした。どんなに忙しくても一年の恒例行事になっていたし、自分としても日々の疲れを癒す貴重な時間だった。やることは特に変わりない、いつもと同じ。桜を眺めて、彼女の作った弁当を食べて、ぼーっとする。ただそれだけのことだけど、心が回復するのを感じた。きっと来年もまたこの場所に来るのだろう、自分でそう思う。
 いつもの夕焼けの中の穏やかな帰り道。そこで澄田は毎年必ず、俺の瞳の奥をまっすぐに見詰めてこの言葉を言うのだった。
「ねぇ、遠野くん。また来年も一緒に桜見ようね!」

 社会人になってから、俺は澄田にどんどん惹かれている自分がいることにはっきりと気付き始めていた。
 仕事の忙しさや辛さも相まって、彼女と過ごす時間は自分の生活において非常に大切な時間であり、また仕事に対する原動力になった。そして澄田の笑顔と「お仕事頑張ってね」という一言が、いつも心にエネルギーを与えてくれ、そんな自分も彼女を喜ばせたくって平日だろうが極力会って一緒にいることに努めた。
 仕事においてもプライベートにおいても、自分なりの方法で毎日を全力で生きた。それがなんだか楽しくって、この先もずっと続けていきたい、いって欲しいと思うのだった。
 そんな日々の充実感の中で、自分は前に進めている、成長できているということに心躍らせた。俺はもっと先に行けるんだ、そう強く思った。

 社会人二年目、二月の第一土曜日。全てを凍えさせるほどに冷え切った日々に、春の雪解けが待ち遠しい、そんな時期。
 共に過ごせる久々の休日で、いつものように澄田とデートをした。
 改めて彼女を見る。『遠野貴樹』という一人の人間の色に染まった澄田は、今までにないくらいに愛おしく感じられた。
 そしてその日の夜、俺は彼女と一夜を共にした。自分の心の内を確かめるように。これは肉体的快楽じゃない、そう精神的な共鳴だ。もう昔の俺じゃない、澄田と一緒にいたいとはっきり思った。ちゃんといい方向に変われていけているのだ、それがとても喜ばしかった。
 きっと澄田はこれからも自分にとって大切な人になる、そう感じた。