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 五月、新緑の季節。木々は若葉で生い茂り、小鳥たちは暖かな陽気に歌いさえずる。爽やかな風が、街を行き交う人々の髪を穏やかになびかせる。楽しげな会話、賑やかな人波、心躍る色彩。世界はそういったもので溢れていた。
 でも自分の世界はまるで違う。カーテンで閉め切ったこの部屋には、何も届かない。ゴミや荷物で散らかった部屋に、時計の針の音だけが正確に虚しく響き渡る。気付けば明里の匂いもいつの間にか消えていた。
 早いもので明里と別れてから一カ月近くが経った。何も考えられない日々が続いたものの、ここ最近は過去の反省を繰り返す毎日。……それでも気持ちの整理は今でもついていない。そこには明里への思いを断ち切れない自分がいた。無理もない、初恋だったのだから。
 十六年に及ぶ初恋の記憶――
 その結末は残酷だ。今こうして部屋に一人何もせずに、ただ佇んでいるとそれを痛感させられる。この部屋の空気に自分が支配されているようだ。いや、自分の出す空気がこの部屋を支配しているのだろうか? まぁ、どちらでもいい。
 強く重い喪失感に包まれた自分の心。今まで生きてきた人生で、これほどにまで心が支配されてしまったことはなかった。液体で満たされたコップのように、内側からも外側からも他の感情が入り込む余地はどこにもない。もうあの幸せな日々は永遠に帰ってくることはないのだ。何かをすることもできず、何かをしたいとも思わなかった。生きるための食事でさえも……。ただただ虚しかった。
 決して寿命が尽きたわけではない。でも人生が終わったようなものだ。そう、終わったのだ、明里との人生が。……それでも……それでも、何かを得なければならないのだ。この先は自分一人だけで生きていかなければならないのだから。


 明里と別れた最後の日。彼女は、お互いどうしても訊くことができずにいた手紙のやり取りについて話してくれた。

 えっとね、ずっと言えなかった手紙のこと……
 貴樹くんと離れてから、私は一人で生きていかなきゃいけないんだってずっと思ってきた。それと同時に、貴樹くんは私を求めているんだってことも感じてたんだ。それでね、私はそんな二つの想いで心の中が一杯になって、何をどうすればいいのか、手紙に何を書けばいいのかも分からなくなってしまったの……。でも、やっぱり私もちゃんと心の内を書くべきだったんだって今思う。だけどそれがどうしてもできなかった……。そうしている内にね、どんどんと手紙を出す機会を見失ってしまって、いつしか出せなくなってしまったんだ……。
 貴樹くんは辛かったよね……。だから、ごめんね……ずっと言いたかった。

 俺は明里を縛り付けていた。知らなかった。そんなこと考えたこともなかった。
 手紙が途絶えたその時から、ずっとその理由を探してきた。怒らせてしまったのか、嫌われてしまったのか、俺の事を忘れていってしまったのか、そんな否定的なことばかり。明里の心の内なんて考えることもできていなかった。彼女は俺を必要としてくれている、それしか頭になかったからだ。
 確かに俺はあの時辛かった。でも明里はそれ以上に辛かったはずだ。自分自身と俺の想いに挟まれ、ずっと一人で悩み、手紙を出せなくなってしまうという最後を迎えざるを得なかったからだ。
 俺は結局その答えに辿り着くことはできなかった。もしあの頃、それに気付くことができていたら、何かを変えることができただろうか? 結末は変わっただろうか? ……いや、きっと変わっていなかっただろう。このような結末の直接的な原因は、これではないのだから。

 明里は言った。『大人になった今の私じゃなくて、十三歳までの私を見ている』と。
 明里は全てを分かっていた。でも俺は何も分かっていなかった。彼女に言われて初めて理解した、あの違和感の正体を。
 ずっと心を支配してきたもの。この正体を知りたくて、解決したくて考えを巡らせてきた。それが明里の幸せに繋がると信じてきたのだから。だけど結局間に合わなかった。
 今思えば、昔話ばかりしていたような気もするし、明里もそんなことを言っていたように思う。俺は子供時代の幸せな日々を、もう一度繰り返したかったのかもしれない……。俺が明里を、明里が俺を必要としていたあの日々を。
 だからきっと、大人になった明里と過ごした日々の中で、彼女が出会ったことのない人のように映ったのはそのせいだろう。俺の明里像は、十三歳で止まったままだった。全ては自分で作り出したのだ。それだけじゃない。俺は『篠原明里』という憧れ、期待、願望を一方的に明里本人に押し付け、そして求めていたのだと今気付いた。そうであって欲しいと無意識に望んできたのだ。
 そう、明里の言う通りだ。確かに俺は彼女を見ていた……でも明里自身ではなく、彼女の幻影を見ていたのだから。そんなこと分からなかった。明里だけを思い続けてきたはずなのに……そうだろう?

――なぜ、そうなってしまったのだろう?
 自分の生きる目的。俺はずっと明里を守れる力を欲し、それを手に入れようと生きてきた。それが自分にとって大人になることだった。その決意を誓ったあの日から明里と別れたあの日まで、呪いのようにずっと心が囚われてきた。ただ明里を幸せにしたいと、その純粋なたった一つの想いがそうさせてきた。自らそれを望み、それに固執し、行動し続けてきたのだ。自分の求める未来に辿り着けると信じてきたのだから。
 それと同時に、ただただ自分だけが大人になることを考え、明里が大人になっていくということは考えていなかった。ずっと十三歳までの明里だけを見続けてしまったのは、きっとそのせいだ。彼女は俺を必要とし続けるか弱い子供だと思い込んでいたのだ。
 しかしそれは間違いだった。
 明里は大人になったのだ。一人で生きていけるほどの力強い大人に。
 俺は何も見れていなかった。今全ての答えを理解した。だが何もかも遅すぎたのだ。体だけは大人になって、精神的には幼稚で未熟な子供のままだ。そんな自分のせいで幸せを感じてくれた明里に、最後はそれ以上の深い深い悲しみを残したのだ。