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 今日は金曜日だったが、街はいつもよりにぎやかに煌めいていた。光り輝くイルミネーションにBGM、街を行き交うカップル達。そう、明日からは三連休で、しかも月曜日はクリスマスイヴなのだ。人々はこの空気に包まれ、皆誰もが笑顔で幸せに満ちていた。そんな人々の中をすり抜け、売り出されたばかりのケーキを横目に電車に乗り込んだ。
 席に深く腰掛け、無意味に床を見詰める。全身から疲れが湧き上がり、笑顔の一つも出なかった。苦しいだけの疲労感。心地よい充実感に満ちた疲労など、とうの昔に消え去った。やっぱり疲れているんだな……、そう思った。
 月曜日は、世間一般でいえば恋人たちにとって、とても大事な日だ。でも俺は、月曜はおろか土日も明里に会えない。単純に会う予定がないからだ。お互いがこの日について話すことがなかった。それは今考えれば普通じゃない。そうだろう? でもどうして? 明里がどうしても会いたいと思わなかったのだろうか? それとも俺が? いや、まさか。

 ふと顔を上げると、向かいに座った中年のサラリーマンが目に入った。手には子供へのプレゼントが入っているであろうおもちゃ屋の袋が握られていた。
――子供の頃欲しかった物。十三歳の少年だった自分が甦る。あの日、心から欲したのは『明里を守れるだけの力』。――そうだ、これが自分にとって大人になること、生きる目的だった。
 そして今、二十六歳の大人になった自分は何を望むのだろう? 俺は確かに大人になったはずだ。目的は達成できたはずなのだ。
 でも、かつて深淵にあると信じた世界は、今の世界なのだろうか? ……いや、違うだろう。自分が今欲しいものは、大人になった先にあるはずの『答え』なのだ。それが切実に欲しかった。いつだって自分の欲しい物は、お金で買える物ではなかったのだ。そう、今だって。
 その『答え』を手に入れるために、具体的に何をすればいいのかは分からない。だけど今のままではダメだ、そう強く思う。
 最近は明里に会える日も減り続け、毎日のようにしていたメールのやり取りも少なくなった。俺はただただ悲しかった。彼女と繋がり合っているはずなのに、通じ合っているはずなのに、この状態は何なのだろう? もっと明里といたい、もっと明里のことだけをまっすぐに見ていたい。そうすれば、今感じている違和感の正体が突き止められると、この状態を抜け出せると、明里を幸せにできると、そう思ったんだ。

 新宿駅に降り立ち、空を見上げた。そこは何かに覆い隠されたように、何もないただの黒い空間だった。

 俺はこの日、会社を辞めると決めた。


 正月、長野の実家に帰った。
 久々の母の手料理は、心癒されるほどにおいしく安心感に包まれた。こうやって人の手料理を食べること自体久しぶりのことだった。
 そんな食卓で、俺は両親に会社を辞めることを伝えた。両親は俺がそう伝える前に自分のことを見てそう察してしたからなのか、あまり驚かなかったが、非常に心配してくれた。なんならこっちで働いてもいいんだと父は言ったが、俺はきっぱりと断った。長野は自分が暮らしたい場所ではなかったし、東京で生きていくのだと自分で選択したからだ。それに確かに出身地であり七歳まで暮らしていたが、もう二十年近く前のことで、すでに知らない街だったし、故郷と呼べる場所ではなかった。
――ふと頭に過る。自分の故郷ってどこなんだろう? ……いや、そういう場所はないのかもしれない。どこに居たって、いつだって、そう感じてきたのだから。
 何気なく見た窓の外は、雪でどこまでも真っ白だった。全ての色を奪い去るかのように。
 俺は「まぁ、なんとかなるさ」と強がるように笑いながら言った。そんな確証なんてどこにもなかったが、今はそう答えることしかできなかった。そうやって自分自身に言い聞かせ、励ましていたのかもしれない。

 休みが明けて会社が始まり、事業部長に辞職を申し出た。プロジェクトは既に去年終了していた。彼は「プロジェクト御苦労だったな」と今までの仕事を労いつつ、俺の意思が固いのを知ると辞職を受け入れてくれた。自分がすべき仕事を完遂し、もうこの会社でやり残したことも何もない、ここに留まる理由も何もないのだ。
 会社を辞めることを社内の友人達が知ると、皆一様に同情してくれた。自分は社内で一人ではなかったのだと、今頃になって気付いた。しかしながら、なにか哀れみの目で見られているような気がした。自分の状況に気付いていたのなら、少しでもいいから力を貸して欲しかったと、そう思った。だが結局は自分自身の問題であり、人がどうこうしてくれる訳ではないのだ。後になった時にこの選択は絶対に間違いではなかったと、そう思いたかった。
 そうして二月末、俺は会社を辞めた。
 これでやっと明里のことだけを考えられるんだ、そう思った。

 三月に入り、数週間が経った。
 その間毎日、俺はひたすら考える、明里のことだけを。会社を辞めたことで、肉体的、ひいては精神的にも楽になった。そう、確かに楽になったはずだ。だけど明里に対する心の違和感だけは何も変わっていないことに愕然とした。なぜだろう? 分からない、何も。
 でも時間はこれからたくさんあるのだ。時と共に解決していってくれればいい。ケータイに映った明里の姿を見詰めながら、そう思った。
 外では桜のつぼみが、今か今かと春の到来を待ちわびるかのように風に揺れていた。