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 もしかしたら……もしかしたらだけどね、離れ離れにならずに側で二人一緒に大人になることができていたら、こうはなっていなかったかもしれないね……ううん、きっとなっていなかった。ずっとそう願ってきたから……


――明里の告白。彼女は心の全てを語った。俺の心の奥底に問い掛けるように。
 涙で濡れて光り輝いた明里の瞳。溢れ出た涙は頬を伝い、こぼれ落ち続けていた。光に照らされ、ただキラキラと。明里は俺と再会してからいつも笑顔でいた。だからその時から彼女の涙を見るのは初めてだった。そう、あの日以来だ。でもその涙の意味はまるで違う。今は悲しみに満ちた涙だ。
 それでも明里の声は震えず、彼女の強く、そして偽りのない意思でどこまでも透明で澄み切っていた。

 明里のその告白が何を望むのか、次の言葉を聞くまで正確に導き出すことはできなかった。
 明里の望むことはただ一つ。

――遠野貴樹と篠原明里は、別々の道を歩んでいくべきだということ。

 俺に拒否権はなかった。明里の望みを受け入れる。それだけが、今の自分が最後にしてあげられる唯一のことだった。他には何もない。何も望まれていない。
 太陽が雲に隠れ、世界の全てが影に支配された。音も光るものも何もなく。


 夕闇に沈んだ岩舟駅。俺達二人以外誰もいない静かなホーム。電灯の白い光に照らされ浮かび上がる明里の姿。無言でうつむくだけの自分の姿。
「あのね、貴樹くん……これ」
 沈黙を破る明里の言葉。その差し出された手には、一通の古びた封筒が握られていた。
「この手紙はね、中学の時、貴樹くんが会いに来てくれた日に渡そうと思っていた手紙なんだ。そう、私の初めてのラブレター。これは私にとって、とても大事な大事なもの……それはね、私の気持ちが詰まっているから。あの時渡すことはできなかったけど、いつか必ず貴樹くんに渡さなきゃいけないんだって、ずっと思ってた。だから今日、受け取ってね」
 俺は無言のまま受け取り、大事にしまい込んだ。後で必ず読まなければならない、そう思った。
――その瞬間、警笛が鳴り響いた。世界の終わりを告げる音だ。そして電車がゆっくりとホームに入ってくる。お迎えが来たようだ。俺はこれからこの電車に乗らなければならない。俺と明里は別々の道を歩んでいく。この電車は、自分を彼女のいない異世界へ連れて行く棺なのだ。一分たりとも遅れていない。残酷なまでに正確だ。今ほど遅れて欲しいと思ったことはない。
 電車が停止し、ドアが開く。一歩踏み出せば、これが明里との永遠の別れになることは容易に想像できた。……それでも、それでも踏み出さなければならない。目に見えない何かによって促されるように俺は一歩踏み出し、乗り込んだ。
 最後に明里の姿を目に焼き付けようと俺は振り向き、彼女を見詰めた。その瞬間、俺の心は痛いほどに締め付けられ、自然に溢れ出た涙で視界が滲んだ。明里は、まるで子供をあやす母親のような穏やかで優しい顔をしていた。涙を拭い、彼女を見続ける。
 ドアが閉まるまで、もう時間はない。でも何をすればいいのか分からないんだ。ただ立ち止ったまま。そんな時何かをしてくれるのはいつも明里だった。ほら、今だってそう。彼女の声が聞こえる――

「あのね、貴樹くん。貴樹くんに出会えて本当に幸せでした。私に幸せをくれてありがとう」
 嬉しいよ。僕も幸せでした、心の底から。口ではなく心の中で答える。
 でもダメだよ、結局幸せにできなかった。ごめんね……
「だからね、これからは今目の前にいる人だけを愛してあげて」
 うん、必ずそうするよ。約束する。
「最後に……これだけは覚えていてね」

「貴樹くんは、きっと大丈夫だから」


 明里の最後の言葉。それを聞いた瞬間、心に滞っていた全てが一気に解き放たれた。ずっと聞きたかった、やっと聞けたその言葉。涙が止まらなかった。止めることなど不可能だった。今までの全てが報われた気がした。明里は幸せを感じてくれていたのだから。
 明里の言葉は、いつも自分に不思議な力をくれる。でもこれからはもう永遠に聞くことはできない。この言葉を心に留めて、この先の未来を生きていきたいと強く思った。きっとこれが、この先もずっと大切な力でいてくれるはずなのだから。
 だから最後に、最後に何か伝えなければ――

「ありがとう……」

 心の底から絞り出した最後の一言。これ以上何も出ない。今の自分の正直でまっすぐな気持ち。明里の心に届いてくれただろうか? いや、きっと届いたはずだ。明里はその一言を聞いて、小さく頷いてくれたのだから。
――その直後、発車のベルが鳴り響き、ドアが閉まった。俺と明里は完全に隔てられたのだ。もう彼女の息遣いすら感じることはできない。この差し出した右手が重なることは、もう二度とないのだ。
 電車が静かに動き出す。両毛線の最後尾、乗務員室の窓から明里を見続ける。彼女も俺を見続ける。その姿がどんどん小さくなり、やがて見えなくなった。それでも俺は、この場所から動くことはできなかった。窓の外を見続けずにはいられなかった。まだ明里がそこに居てくれているのではないかと思わずにはいられなかったから。でもそこには、もう何も見えない。無限の暗闇だけだ。
 その瞬間、明里と初めて出会ったあの時から始まった人生が、今日この瞬間、この場所で終わってしまったのだとはっきり分かった。
 自分は今何をしたらいいのか、何をすべきなのか、何も分からなかった。分かろうとすることさえできなかった。ただそこに立ちすくみ、声を押し殺して泣き続けるだけだった。まるで心の中身が流れ出しているようなこの涙を止めてくれるものは、何もなかった。
 窓の外は、いつまで経っても人家の明り一つさえ見えずにいた。