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 七月のとある晴れた日の夜、また夢を見た。
 星が瞬く夏の夜。涼しい風が心地よく、生い茂る夏草の放つ音と匂いに包まれた。ここは小高い丘の上だ。目の前を遮る物は何もなく、ずっと遠くの景色まで見渡せた。のどかな自然と高いビルのない町並み。この場所は自分がよく知っている場所だ。そう、ここは種子島だ。
 そこに佇む自分。そしてその隣には、一人の女の子がいた。
 自分と同い年。短い髪が風に揺れ、懐かしい匂いがした。彼女は言葉を発することはせず、ただ優しく微笑みかけてくる。いつも見てきた表情。
――今彼女の全てを思い出した。
 そう、その女の子は自分がよく知っているかつて付き合っていた人、澄田花苗だった。
 目が覚めると、胸が高鳴るのを覚えた。

 反省すべきことはまだあった。澄田のこと。
 中学二年で出会い、高校三年で付き合い始め、大学、社会人といつも一緒にいた女の子。俺達は恋人同士だった。そう、今思い返せば明里と過ごした時間よりも、澄田と過ごした時間の方がずっと長かったのだ。
 忘れていた澄田との思い出――
 高校三年生の十月、ロケットが打ち上がったあの日の夕暮。告白を促した自分と告白してくれた澄田。『好き』と言ったあの瞬間の声と表情。
 大学生、東京での生活。澄田は俺を色々な場所に連れてった。様々なことを経験し、様々なことを感じた。彼女と生きていく、そう決意した。
 社会人、仕事に追われる日々。それでも毎年、澄田とお花見をした。俺はそこでする彼女との会話が、彼女の作る弁当が、彼女と見る桜が大好きだった。澄田との仲がより深まり、きっと自分にとって大切な人になる、そう感じた。
 澄田は俺に色々なものをくれた。受け取って欲しかったのだ。
 そして今になって気付いた。俺と一緒にいた時の彼女の全ての行為は、いつか俺と別れる時が必ず来るということが分かっていたからなのだと。『また来年も、一緒に桜見ようね』という言葉でさえも。

――俺は今まで澄田を見ることができていただろうか?
……それはできていたはずだ。今でも澄田の全てを鮮明に思い出すことができるのだから。彼女の声や表情、匂いまでも全て。

――だが一つ問題があった。
 今までの俺の心の中には、いつも明里がいた。いつも明里を中心に物事を考えていた。それは無意識だったが、それが明里に対する思いの強さの現れなのだ、そうどこかで思っていた。彼女だってそうすることを望んでくれているはずなのだと、勝手に決め付けていたのだ。
 だから俺は澄田を“直接”見ることができなかった。そう、俺は目の前にある全てを『篠原明里』というフィルターを通してしか見ることができなかったのだ。もちろんそれは澄田に対しても同じだった。
 澄田はそれが辛かっただろう、悲しかっただろう。彼女が別れた時に言った言葉からも分かるように、明里の存在に気付いていたのだから。それでも澄田は俺と付き合い続けてくれたのだ。
 そして今、自分自身に問い掛けたい――
 ずっとそうやって世界を見続けてきた訳だが、澄田と一緒にいた時に感じた安らぎや楽しさ、そして彼女を心から愛おしいと思った気持ちも全て嘘だったのだろうか?
 いや、それは絶対に違う。澄田と過ごした日々や、あの頃の心が嘘であるはずがない。偽りのない本物の気持ちだ。
 よく覚えていることがある。明里とまた付き合い始めたばかりでいつもより長く残業をして疲れ切った体で部屋に帰ったある日のこと、俺はある異変に気付いた。
 それは、いつもここに来ていた澄田の匂いがしないのだ。俺はそれを正直寂しく感じた。そう感じてしまった自分に対しての驚きはなかったし、理由も分かっていたはずだった。
 だからこそ分かる。当時を思い出せば今でも心が灯で照らされ、温められ、そして心の底から幸せだったとはっきり感じるのだ。そこに否定的な感情など一切ない。もう失ってしまったと思っていたけれど、ずっと消えることなくそこに在り続けていてくれたのだ。
 そしてはっきりと気付いた――
 それを与え続けてくれた恋人を自ら手放してしまった愚かで哀れな自分がいることに。
 俺はなんて奴なんだろう。もっとずっとずっと酷いことをしてきた。自分と係わった全ての人間を傷つけ、それに気付くこともなく不幸にしてきたのだ。ずっと側にいてくれた澄田でさえも、捨てるようなことをしたのだから。
 もしあの頃、澄田の気持ちを考えてあげることができていたのなら、このような結末にはなっていなかったのだろうか?
……いや、俺はどっちにしろ明里を選んでいたに違いない。俺は弱い奴なのだから。
 そうして俺はたった一人ぼっちになった。
 そして今知った――
 心から好きな人と別れなければならないということが、どういうことかを。
 それでも澄田の悲しみを量ることなどできない。自分に非があった俺とは違って、彼女は何も悪くないのだから。俺と係わることさえなければ、そんな思いをすることはなかったはずだ。全て俺の責任だ。
 だから今自分がしたいことはただ一つ――
 澄田に謝りたい。たった一言でもいい。直接会って、自分の口から伝えたいと、そう強く思う。それがせめてもの罪滅ぼしになって欲しかった。

 そうとなれば、すぐにでも澄田と連絡を取りたい。でも彼女と別れてからもう二年以上が経っているのだ。今更会ってくれと頼むのか、どんな顔をして会おうというのか、俺はどうしたらよいのだろうか? それだけじゃない、あんなに酷い別れ方をさせてしまって会いたいなんて言ってもよいのだろうか? それを言われて澄田はなんて思うだろう? 喜ぶのか、悲しむのか、それは本人しか分からない。それに過去を掘り返すようなことだ。彼女だって、もう前に進んでいるはずなのだ。憶測の域を出ない澄田の気持ちと自分の気持ちが交錯する。いいのか? いいのだろうか? そこには自分なりの葛藤もあった。
……それでも……やはりそれでも、あのようになってしまったからこそ、顔を合わせて自分の正直な気持ちを伝えたい。そうすることで、やっと自分も澄田も救われる、そんな気がするのだ。
 そう、悩んでいる暇なんてないのだ。

 まずどうやって連絡を取るか? 色々迷った挙句、ここは一番自分らしいやり方をしたいと思った。それは電話でも、ケータイのメールでもなく、一通の葉書を出すことだ。だが別れた時と同じ部屋に住んでいるかも分からないのだから、そもそもそれが澄田の元に届くかどうかは分からない。傍から見れば馬鹿なやり方かもしれないけど、今はこうしたかった。電話したって何を話し出せばいいのか分からない、メールだって画面に出たただの文字では気持ちが伝わりにくい。だから葉書にしっかりと自分の字で書きたいと思ったんだ。