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 高校時代の俺の心には、明里を追い求め続ける強い思いと、彼女からの便りが来なくなった今、早く明里のことを忘れて前に進むべきなんじゃないかというわずかながらの思いが混在していた。
 澄田から告白を受けたあの日のこと、俺が彼女にあの言葉を掛けたのはそのわずか数%の、いやもっと低い心の潜在意識に自分の背中を押されたからだと思う。なぜだろう、あの時はその思いが強く出たのだろうか? 自然と口に出ていたのだ。
 そして自分の口から告白せずに澄田の口から告白させるように促したのには理由があった。
 それは自分の口から告白するという行為自体が、明里に対する裏切りになると思ったからだ。彼女から便りが来なくなってしまったけれど、俺が彼女を思うように今でも俺のことを思い続けてくれていると信じていたのだ。そんな確証なんてどこにもなかったが、澄田からの告白に自分は答えただけだ、そういう形にしておきたかったんだ。
 もちろん澄田が自分のことを好いているということには気付いていた。俺と一緒にいた時の行為や表情、会話や視線などの一つ一つが心に訴え掛けてきたからだ。それは彼女に出会った時からいつも感じてきたし、彼女にとって俺は特別な人間だということも分かっていた。
 一方俺はそんな澄田の好意を嫌に思ったことは今まで一度もなかったが、それでも彼女に対して特別な恋愛感情を抱くことはなかった。それだけははっきりしている。つまり俺と澄田の内心は違っていたということだ。だから彼女の好意に応えてあげたいなんて気持ちはあまり無かった。あの時の自分には彼女の気持ちがどうこうというのは特に関係がなかった、そう思う。
 あの時の心の中にあったのは、とにかく今の自分を変えたいという思いだった。俺を思い続けた澄田と恋人同士という先の段階に進むことによって、この現状に変化を起こせるかもしれないと思ったのだ。明里に依存することのない新しい自分に。俺は澄田の力を借りようとしたのだ。だけどそれが彼女でなければいけない理由もなかった。自分の心にこの思いがあり続ける限り、遅かれ早かれ俺は誰かの力を借りていただろう。それがたまたま澄田だっただけなんだ。そうそれだけ……
 これが俺が澄田と付き合うことを選んだ理由なのだ。
――その選択をしたあの時の自分の感情はどうだっただろう?はっきりと心が揺れ動いたのは……そう、澄田にキスをされた瞬間のことだった。
 ついに自分は明里以外の人とキスをしてしまったんだ。
 明里に最後に会ったあの日から彼女を思い続けたこの人生が、そこで終わってしまったような気がした。絶望感とでも言うのだろうか、よくわからない。でも明らかな悲しさがこみ上げて俺の心を絞めつけた。その時俺は自分の心がいかに明里に向けられていたのか、いかにその気持ちが大きく深かったのかがはっきり分かった。そして俺と明里はこの先も永遠に、再び巡り会うことはないのだと感じたのだ。
 でもその後には、これから先は澄田と共に歩いて行くのだと認識し、自分の心に覚悟のような、そういった感情が芽生えたような感じがしたのだ。またそれと同時に俺が明里を思い続けたように、澄田も俺を思い続けていたのだとはっきり気付いた。
 それでも澄田の泣き顔を見てしまったせいなのか、あの時の自分にはただ彼女を抱きしめることしかできなかった。
 そしてすべての最後には、再びこのキスによって世界の何もかもが変わってしまったような気がしたのだ。
 
 
 澄田と付き合い始めたある日、俺はこんなことを訊かれた。
「ねぇ、遠野くんはどうしてそんなに優しいの?」
「え、そうかな?」
 予想外の質問に俺は少し驚いた。
「うん。遠野くんはね、あたしには特別優しいってすごく感じているよ」
「きっと澄田と付き合ってるからだよ」
「ううん、あたしは遠野くんの彼女になる前からそういう風に感じていたんだよ」
「そう? うーん……自分でもよく分からないな。多分そういう性格なだけだと思うよ」
 俺はそう答えて話をはぐらかした。そんな澄田はただ笑っていたけど、本当の理由に気付いているのかどうかは分からない。
 彼女が言うように俺は本当に優しいのだろうか? ……いや、違うだろう。俺は優しいんじゃない、ただ人に冷たくしたくないだけなのだ。
 なぜそうなったか、いつそうなったか、自分でよく分かってる。それは昔のこと、まだ小学生の時だ。無力で幼稚だった俺は、自分の一番大切で守ってあげなくてはならないはずの女の子を自らの言動でひどく傷つけてしまったからだ。それは今でも恥ずかしく、そんな自分を変えようとしてきたのだ。だから俺はもう誰かを傷つけたくないのだ。そうそれは澄田に対してだけではない、誰にだってそうなのだ。自分が好いていようがいまいが。

 澄田と付き合い始めて数カ月が経った。だけど自分でも拍子抜けするほど二人の距離感には何も変化がなく、ここ最近は受験勉強の忙しさを実感する毎日だ。
 俺は以前から決めていた進路通りなわけだが、実は澄田が同じように東京の大学を受験すると決めたのは、俺の方から進学することを勧めたからだった。もし仮に遠距離で付き合っていたとしたら、きっと明里のように自分のことを忘れていってしまうんじゃないかとそんな気がしてならなかった。もうこれ以上自分から誰かが離れていって欲しくなかったんだ。だから澄田には自分の側にいて欲しかった。

 そして年が明け、受験が終わり、高校を卒業した。寂しさなんてものはほとんど無かったし、上京する不安なんてものも特に感じなかった。もともと東京に住んでいたし、引越しの多かった自分にとってそんなことはいつものことだったからだ。それよりもやっと卒業できた、そう思った。それはこの場所は自分の住むべき場所ではないとずっと強く感じてきたからだ。何年経ってもそれが変わることはなかった。
 だからこそ種子島に来てからの五年間、その日々はとても長く感じた。早く東京に戻りたい待ち遠しさ、島に慣れることができないもどかしさ、明里からの便りが来ない悲しさ辛さがそんな風に感じさせていたのだろう。あの日澄田に言われた『遠くに行きたそうだもの』、その言葉を思い出す。確かにその通りだった。