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 ある違和感。それが一体なんなのか、どこから来るものなのかは今の自分には全く分からなかった。それをどこに持っていけばいいのか、どう扱えばいいのかでさえも……。一度その違和感の蓋を開けてしまうと、それを閉じることはできなかった。

 明里と再会した年に、仕事が転機を迎えていた。その仕事は、ただ辛いことしかなかったが、最初の頃はそんなことはほとんど気にならなかった。それは彼女が側にいてくれたからだ。明里と過ごせる時間が自分にとっての生き甲斐だった。
――それが今ではどうだ。
 違和感を覚え始めると同時に、仕事の辛さが身にしみて感じ始め、やりがいまでも低下していった。プログラムによって指定された動作をするだけのコンピュータのように、ただ淡々と思考を停止させたまま働き続けた。皮肉なものだ、プログラミングしている自分がプログラミングされているようだった。俺は一体何のために働いているのだろう、そんな疑問すら頭に浮かんだ。
 だけど、ただとにかく今は自分のできることをやるだけなのだ。今までだっていつもやってきたことなのだから。
 違和感を抱えつつも、ひたすら仕事を続け、そして明里と過ごした。もう明里だけが生きる希望だった。

 出会った頃と同じように、明里とデートを重ねた。場所も同じ。でもなぜだろう、栃木までの移動時間が、今までより急激に短く感じられた。車窓から見える景色だって、ただ見慣れてしまっただけなのかもしれないが、単なる風景に見えた。これでは社内の自分の席から見える景色と何ら変わりないじゃないかと思った。そんな風にしか感じられなくなってしまったことが悲しかった。

 そういえばこんなことがあった。
 明里と付き合い始めたある日のデートで、俺達は休憩のために喫茶店に入った。楽しく会話しながら、俺は何気なくポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「貴樹くん、煙草吸うんだ……」
 明里はどこかぎこちないような顔で言った。
「あぁ、うん」
「そっか……貴樹くん、まさか煙草吸うようになってるなんて思わなかったな。子供の頃からは全然想像できないよ。……それに、なんか似合ってないよ」
「そうかな?」
 自分からしてみれば意外だった。
「うん……なんとなくだけどね」
「まぁ……大人になったんだ」
「そう……」
 明里は伏し目がちに小さくつぶやいた。その顔には、ほんのわずかに寂しげな表情が隠されているように思えた。そんな表情を見てしまったからなのかは分からないが、俺はその日から煙草を吸わなくなった。……初めて煙草を吸ったのは、いつの日だっただろう? どうして吸い始めたのかさえもよく覚えていなかった。


 明里とお花見をしてから数カ月が経ち、夏になった。
 オフィスや電車内の冷え切った空気と全てを焼き払うかのような太陽光線や、不快なまでの熱帯夜との差にうんざりする毎日。仕事も相変わらずの状態で、ますます忙しくなった。
 そんな中での休日を明里と過ごす。貴重な彼女との楽しい時間に、仕事の愚痴を言うべきではないと分かっていながら、つい口からこぼれてしまう。ただ慰めて欲しかっただけなのだろうか、そんな自分に嫌気が差した。
「子供の頃の自分が、今の自分を見たら驚くだろうね」
 明里が通い慣れた東京の部屋で、食後のほうじ茶を飲みながら俺は彼女に話しかける。
「そう? どうして?」
 対面に座った明里が訊く。
「うん……何ていうか、やっぱり今仕事にちょっと疲れてきてるんだ。SEになるなんてことも想像してなかったし……まぁ、なりたいものは何もなかった気がするけど、それでも子供の頃は、世界ってものは、もっと広くて深くて謎めいていたような気がするんだ。冒険心を掻き立てられるような。それに今よりずっとずっと輝いていたと思う。明里と一緒に過ごせたことも、きっとすごく関係あるはずだよ」
 湯呑の底を見詰めながら答えた。
「うん……そっか。私も子供の頃一緒に過ごせて本当に楽しかったよ。でも私は、仕事をしている今の貴樹くんも好きだけどな」
「そう?」
 意外な言葉に少し戸惑った。明里がそう言ってくれた『遠野貴樹』は、今の自分にとってはどうしても好きにはなれないのだ。彼女の言葉が救いになってくれればいいのだが……。だからといって好きになれるとも思えなかった。
「私にとっては子供の頃と変わってないよ。今も昔も貴樹くんは、貴樹くんだよ」
 明里は俺の瞳を見詰めて穏やかに笑い、そう言った。彼女の表情、その瞳の奥には、何かを訴えかけるような真剣さが見て取れた。それにその言葉には、もっと色々な意味が含まれているような、そんな気がしてならなかった。

 改めて思い返してみると、いつもの明里との会話は、全てが楽しく感じたというわけでもなかった。だからこそすごくはっきりと心に引っ掛かった。
 明里の口から、現在においても過去においても自分の知らない彼女と親しい人物の話が出ると、今まで感じたことがないくらいに心の奥底が寒くなるのだ。彼女がそんな話をすると、いつもその気持ちになった。明里は明里だけど、なんとなく出会ったことのない人のように自分の目には映るのだった。
 なぜこんな気持ちになるのだろう? 考えても分からなかった。でも自分が同じようなことを話したとしても、明里はそんな気持ちにはならないということだけは、はっきりと分かるのだ。これが何を意味しているのか? 正解が分からない問いに、答えを出すことはできなかった。


 十二月末、今年ももうすぐ終わりだ。空気は日に日に冷え込み、太陽を見る時間も短くなった。
 仕事を終え、会社を出た。コートのポケットに手を突っ込み、疲れ切った体を引きずるように駅まで運ぶ。ここ最近のいつもと同じ動作。冷えた外気が体の芯まで凍えさせ、身を丸くした。