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 それから一ヶ月後、三月の第一土曜日。未だに外は冬のように寒く、桜のつぼみもまだ硬く閉ざされていた。天気だけは雲一つなく晴れ渡り、部屋に降り注ぐ日差しが眩しかった。
 今日は澄田に予定が入っているため、前から家でのんびりしようと決めていたが、なぜだかいつになくソワソワして何も手に付かなかった。いつもならタバコでもゆっくり吸って気分を落ち着かせるが、それもする気にならなかった。
――俺は外出することに決めた。
 適当に上着を着て、財布とケータイだけポケットに突っ込んで外に出た。息は白く、冷えた空気が肌を突き刺した。
 目的地を決めることなく、ただブラブラと新宿駅周辺を歩き回る。
 こうしていると普段気にも留めなかった様々な物事が、頭に次々と飛び込んできた。街の喧騒や排ガスで汚れた空気、行き交う人々の会話、立ち並ぶ商店の照明や活気、電車のスピードにビルの色や高さ、生い茂る植物の匂いまで。そういうことに今日は非常に敏感になっていた。
――普段あまり行かないような道を歩きたくなった。住宅街の中の細い路地を行くと、十字路に出た。その一つが少し急な上り坂だった。俺は何も考えずに、その道を選択した。それは直感的な判断だった。
 坂を上る。足取りも軽く、上り切ると高台に出た。
 一人の女性が歩いてくるのが目に入る。えんじ色のマフラーに白いコートを着て、艶やかな髪が光をキラキラと乱反射させていた。背筋よく颯爽と歩くその姿は美しかった。
 その姿がはっきりと見えた瞬間、心の奥底がざわめき立った。寒さにかかわらず全身から汗が噴き出るのが分かる。俺はその場に釘付けされたように立ち止り、一歩も動くことができなかった。
 その女性を見詰める。
 そして彼女も俺に気付き、立ち止まる。はっきりと目が合う。二人を遮るものはなく、自分と彼女の世界だけが無限に広がっていた。
 頭で考えることなく本能的に分かった。その女性は紛れもない、篠原明里その人だと。

 俺と明里は我に返ったようにお互い歩み寄り、見詰め合う。
「明里……」
「貴樹……くん?」
 明里は今目の前に起きていることが信じられないといったように大きく目を見開き、顔を紅潮させている。その目はどこまでも透明で澄んでいて、光り輝いているように見えた。
 言葉ではとても言い表せない感情が心に溢れ出し、目に熱いものが込み上げて視界がぼやけた。それは遥か昔に過ぎ去ってしまった懐かしい感覚だった。
 そして現実に手で触れ合うことができる距離にいる明里は、自分の想像をはるかに超え、ずっと美しく、ずっと大人になっていた。中学一年のあの日に感じたものよりもずっとずっと。
 心のどこかでは、もしかしたら今日、いや明日、明後日明里にまた出会えるんじゃないかってそう思ってきたことに今気付いた。それがこの瞬間、本当に叶ったのだ。
 今日この時間、この場所を通らなければ明里に出会うことは絶対になかっただろう。これは奇跡以外のなにものでもない。あの日明里と離れてから今この瞬間までの人生が、全てここに繋がっていたのだと、そう思った。


 話を聞くと、明里は今でも栃木に住んでいて、今日は仕事で知り合った東京の友人と遊ぶために本当にたまたまこっちに来ていたということだった。
 その人との約束の時間までまだ少しあるということなので、こうして近くの適当な喫茶店に入ったわけだ。
 少しの時間しかないせいもあって、あまり突っ込んだことは話せなかった。それでもあの日以来の明里との会話は、彼女と過ごした小学生時代の感情を蘇らせ、非常に懐かしく自分の心を躍らせた。こうやって直接会話するのはもう十一年も前のことなのにそれを全く感じなかったし、昨日も会っていたかのように俺も明里も次から次へと自然に言葉が溢れ、途切れることはなかった。それはとても不思議な感覚だった。とにかく嬉しかったし、彼女も同じように嬉しいと言ってくれた。
 明里との関係が完全に途切れてしまったことがあったけれど、今でも俺達はしっかりと繋がっていたのだと確信できた。
 こうして久しぶりの会話を楽しみ、当然のようにお互いの連絡先を交換してそれぞれの予定に戻った。
 そして明里は今現在、お付き合いしている人はいないということだ。それは今の俺には完全に関係のないことのはずなのに、なぜか安心してしまった。
――そう、俺はこの時澄田の存在が頭から完全に消えていたのだ。




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