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 四月、第二土曜日。俺と明里は、去年と同じように岩舟の桜の下に来ていた。
 今日は一段と日差しが暖かく、空は雲一つなく澄み渡り、そよ風が心地よかった。こんなにも穏やかで心温まる日は久しぶりだった。
 それに明里に会うこと自体も本当に久しぶりのことだった。それも去年の十二月の頭以来で、年明けからは退職のことで忙しかったために合うことができずにいた。明里には「今忙しいから、どうしても会えないんだ」としか伝えておらず、会社を辞めたことは言っていなかった。ただ言うタイミングがなかっただけだと、そう思う。
 お互い連絡を取り合いながら、直接会うことができないこの状態。文通をしていた頃と重なって見えた。明里は「仕方ないね。お仕事頑張ってね」とだけ言っていたが、俺は決してそれだけではないとはっきり感じた。彼女は直接会いたいのだと、そう感じたのだ。あの頃も同じだった。自分だって明里に会いたい、そしてずっと側にいて欲しい、ただただそう思う。彼女にそんな思いをさせてしまっていることが、ひたすら心苦しかった。
 でもこれからは違う。いつだって明里に会えるのだ、ずっと明里の側にいてあげられるはずなのだ、そう思った。

 一年ぶりに同じ場所に座り、桜を眺める。桜の花びらが美しく舞い降りていた。いつかは全てが散り終えてしまうものだと知っていながら、なぜかそれは永遠に降り続くかのように見えた。いや、そう見たかっただけなのかもしれない。
 一年ぶりに明里の作ってきてくれたお弁当を食べる。その味は身に染みるほどにおいしかった。去年よりもっと。こうして明里と顔を見合わせながら会話し、彼女の手料理を食べる。恋人同士であれば、至って普通のことかもしれない。でも最近はそれができていなかった、いつだってそうしたかった。そうだよ、これが幸せなんだ。今この瞬間、改めて感じた。この幸せが永遠に続いて欲しいと強く思った。

 ゆっくりとゆっくりと時が過ぎ、日が傾き始めた。暖色を帯び始めた陽光が、桜の花びらをまた別世界のように輝かせている。キラキラと光の粒が舞い踊っていた。自分達もその光に包み込まれ、目の前は影一つなく眩しかった。明里は太陽の方をただずっと見詰めていた。いつの間にか二人のいる場所一面は花びらで埋め尽くされ、それは本当に雪原のようだった。音は何も聞こえない。それでも明里の息遣いだけは、手に取るように感じることができた。とても落ち着いた穏やかな呼吸だった。未来への不安など全く感じさせないほどに。
 一瞬風が強く吹き、桜の花びらが巻き上げられて空の彼方まで飛んで行った。
 そう、それは突然のことだった――

「あのね……私は貴樹くんに、大事な話があるの」

 明里はそう言って、静かに語り始めた。


 貴樹くんは私と一緒に過ごしてきて、何かを感じてるんじゃない?
 私にはね、貴樹くんが今感じていることが分かるんだ。何か心の中に引っ掛かっているものがあると思う。それはね、私が感じていることとは違うんだ……
 私は貴樹くんのことが、本当に心から好きだよ。それは子供だった時も、大人になった今も、その時に目の前にいる貴樹くんだけを見てきたんだ。……それで貴樹くんもね、私を見てくれている。でもそれは同時に私を見ていないんだ。貴樹くんは私と同じじゃないんだよ……

 それはね、きっと大人になった今の私じゃなくて、十三歳までの私を見ているからなんだよ……貴樹くんはそれに気付いていなかったでしょう? これが心の中に引っ掛かっているものの正体だよ……

 私はね、二人で過ごした子供時代、本当に幸せに包まれていた。離れ離れになってからも、その感情はずっと変わることはなかったよ。だけどそれと同時に、もう二度と会えることはないんだ、一人で生きていかなきゃいけないんだ、そう思ってきた。でもまた出会えた。ただただ嬉しかったよ。奇跡みたいだって思った。また好きな人と一緒にいられるんだ、またあの幸せな日々を過ごすことができるんだ、そう思った。そしてまた付き合い始めて、私はいつも貴樹くんのことを考えてた。早く週末にならないかな、次会えるのはいつなのかな、何が食べたいのかな、どんな本が好きなのかな、他にも色々。メールが来るだけでドキドキして、それを読んで返信してまた繰り返す。それが楽しかった。……あぁ、やっぱり私は貴樹くんのことが好きなんだって改めて気付いたよ。こんな幸せな日々が永遠に続いて欲しいって思った。私は心の底から貴樹くんに恋してたんだ。
 でもね、一緒に過ごしていく内に私はだんだんと、そしてはっきりと気付いてしまったんだよ……私たちはそれぞれ求めているものが違うんだって。そう……貴樹くんが辿り着きたい場所は、大人になった今目の前にいる私じゃなくて、子供の頃の『篠原明里』なんだって……
 それはね、私にとってはすごくすごく悲しいことなんだよ……。どうしたら貴樹くんは今の私を見てくれるんだろう、ずっとそう考えてきた。でも私には分からなかった、どうすることもできなかった。私が近づこうとしても、貴樹くんの心が離れていくのをはっきりと感じていたから……。私はそこに辿り着くことができなかった。きっとこれからもそうだと思う。
 私は私だけど、あの頃の私はもういないんだよ。
……ごめんね、もう子供の頃の私には戻れないんだ……

 ねぇ、見て。
 桜の花びらが落ちるスピードは秒速五センチメートル。だけどね、たとえ二つの花びらが同じ位置、同じ時間に落下が始まったとしても、どちらか一方が地面に辿り着くまでの間に風に吹かれたり、何かに引っ掛かったりしてしまうことだってあるよね。もしそういうことがあったとしたら、当然地面に辿り着く時間も、そしてさらに辿り着く場所だって違ってきてしまうと思うんだ。……だからね、きっと多分、私と貴樹くんもそうなってしまったんじゃないかな……私は今、そんな風に感じているよ……
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